2013年10月8日火曜日

MoEに至るプロセス-京大カードからPoICまで


まえおき


つかさです。
僕が京大カードに出会ってから、どういう経緯でMoEに至ったかを追ってみたいと思う。おおざっぱには

  • 京大カード→PoIC→(カードからPCデータへの移行)→「超」整理法→MoE

という過程で進んでいるのだが、試行錯誤や行ったり来たりとか同時並行だとかがあるのでもちろんスムーズに来たわけではない。
この種の技術にはある程度普遍性があると思うので、誰かの参考になればいいかなと思ってます。

京大カード


僕が知的生産術に手を出したのは、梅棹忠夫『知的生産の技術』を読んだのがきっかけだった。
「京大カード」あるいは「情報カード」と呼ばれるB6のカードを手に入れ、ここに思いついたことを書き込んでいく。


書式はこのように。日付、タイトル、本文から構成。また、一つのカードには一項目のことのみを記述するようにする。裏面は使わない。書けたら、そのカードをカードボックスに入れる。

カードが相当の枚数たまったら、それを「くる」ことによって発想を促す。自分が書いた個々のカードがランダムに現れる状況を作ることで、知的生産を実行するのだ。

たしかに個々のカードは、経験や知識の記録である。しかし、それをカードにしたのは、知識を分類して貯蔵するのが目的なのではない。何万枚ものカードも、死蔵していたのではなんにもならない。それは活用しなければならないのだ。カードを活用するとはどういうことか。それは、カードを操作して、知的生産の作業をおこなうこということである。
操作できるというところが、カードの特徴なのである。蓄積と貯蔵だけなら、ノートで十分だ。ノートにかかれた知識は、しばしば死蔵の状態におちいりやすいので、カードにしようというのではなかったか。カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。そのときには、すぐにその発見をもカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。これは、知識の単なる集積作業ではない。それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P57)


このシステムは、カードが相当枚数たまることを前提としている。そしてカードがたまればそれだけ、有用性は高まるという思想を持っている。
くりかえし強調するが、カードは分類することが重要なのではない。くりかえしくることがたいせつなのだ。いくつかをとりだして、いろいろなくみあわせをつくる。それをくりかえせば、何万枚のカードでも、死蔵されることはない。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P59)

ノートでも同じだが、カードはとくに、長年つづけてやらねば効果はすくない。いわば蓄積効果の問題なのだから、一時的におもいついてやってみても、なんのためにこんなことをするのか、わからぬうちにいやになる。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P63)


京大カードの画期的な点


「アイデアは個々バラバラになっているほうが使いやすいのではないか」というアイデアが、京大カードの基礎にある。そしてこの発想は、一般に用いられている文房具とは潮流を異にするものである。

この手の技術について疎い人の場合、論文を書くなり何なりで知的生産をしたいというとき何をするかというと、ノートを利用するわけだ。ノートに思いつきを書き、それを元にして論文を作ろうとするだろう。だが、そのような試みはたいてい失敗する。ノートの場合、書き込んだアイデアを組み替えることができない。関係するもの同士を並列したいのなら、新しくノートを購入してそこに書き直すくらいしかない。が、これはそれに非常に手間がかかるという理由で、たいていは破綻する。
そこで、あらかじめアイデアを最初から個々バラバラで組み替え可能なようにしているのが、このカードシステムなのである。アイデアを個別に分離し、それを蓄積して利用する。このための具体的方法論を提出したという点で非常に画期的である。

また、これは論文を書くというのは所詮技術の問題にすぎない、それがうまくいかないのはそれがつたなかったからだ、というように言い切ったという点でも意義がある。この転換がなければ、論文が書けないのは自分の頭が悪いからであり、精神的に未だ未熟だからと総括して無意味な方法を続けることになっただろう。
技術というものは、原則として没個性的である。だれでもが、順序をふんで練習してゆけば、かならず一定の水準に到達できる、という性質をもっている。それに対して、研究だとか勉強とかの精神活動は、しばしばもっとも個性的・個人的ないとなみであって、普遍性がなく、公開不可能なものである、というかんがえかたがあるのである。それは、個性的な個人の精神の、奥ぶかい秘密の聖域でいとなまれる作業であって、他人にみせるべきものではない… …。
しかし、いろいろとしらべてみると、みんなひじょうに個性的とおもっているけれど、精神の奥の院でおこなわれている儀式は、あんがいおなじようなものがおおいのである。おなじようなくふうをして、おなじような失敗をしている。それなら、おもいきって、そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう。そういうようにしようではないか、というのが、このような本をかくことの目的なのである。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P8)


京大カードの限界


このシステムを用いていると、途中で突き当たる壁がある。それは、「死蔵」という問題である。この問題は、カードを大量にためてそれを利用するシステムである限り、ずっと付きまとってくるものである。

このシステムは、取り扱うカードが少ないうちは問題なく機能する。たとえばA4数枚のレジュメだとか、本を読んでそれをまとめるくらいだったらいい。レジュメだったら、何か思いついたことなり調べたことなりを片っ端からカードに書いていき、あとでそれを並び変えて作成する。本を読んでそこで気づいたこと、思いついたことをカードに何枚か書きとめる。そうして読み終わったら、そのカードを並び替え、それを元に文章を書いていけばいい。漠然と本を読むなり思いつきなりだけでいきなり文章を書き始めるよりは、格段に質のいいものが短時間でできるはずだ。

必要なアイデアメモが取り出せない


だが、これは扱う対象が増え、複数の事柄について書いたカードが蓄積し、カードの枚数が増えていくと機能しなくなる。例えば何かのテーマについて書く必要があり、そのために以前に書いたメモを参考にしようと思って、カードをくるとしよう。すると出てくるのは、個々バラバラの事態について思いついたアイデアだ。そのテーマに関係の無いメモはノイズとなり、かつ過去へと遡れば遡るほど、賞味期限が切れて意味をなさなくなったアイデアのかけらに出会うことになる。

アイデアは、それを思いついた当初は意味を持っていたとしても、時間の経過によって劣化し意味のわからないものになる。結果、最近のカードから使えそうなアイデアをタイトルなどから関係してそうなもののみ抜き出し、それを元に考察をするだろう。これは、それらを一つのデータベースとしてためていることに意味がないということを示す。

発想支援装置にもならない


アイデアの発生装置としても役には立たない。たとえば僕が過去に使っていたカードボックスには、FPSでの特定マップの攻略アイデアと気になったレシピと何かの思いつきの断片と何かの記録とというようなものが混じっている。これらを見比べて何か意義のあることが思いつくことなどできるわけがない。

結局は、最近のカードをめくって関係するもののみを取り出してそれを持ち歩き、それを元にして発想をするということをしていた。これは結局、それ以前のカードが死蔵し、それの作成のためにかけた労力が無になったのと同じことである。

京大カードの次へ


複数の情報を並列することで発想する。これは、その対象が少なくとも相当練り上げられ、情報として洗練されているものでないと意味がない。アイデア段階のものがそのまま打ち捨てられた状態のものが並んでいたとしても、それはノイズにしかならないのである。

新しい刺激が欲しいのであれば、誰かに話を聞きにいくなり町に出て新しい経験をするなり誰かの本を読むなりすればいい。それを自分のアイデアで、データベースとしていちいち手間をかけて作成する意味はない。カードがたまればたまるだけ、それが有効に機能するという根幹にある思想自体が誤っているのではないかと思うのだ。アイデアを出す。それを個別に切り離せる形で保存する。ここまではうまくいく。アイデアはバラバラになっているほうが使いやすいというのは確かにそうだ。ただ、それをどのように運用するかという問題が、それを実際に大量にためたあとに現れるのである。

これへの対策としてPoICのタスクフォースがある。

PoICのタスクフォース


PoICというのは、京大カードを用いた方法論を体系的に整備したものである。
wiki形式になっており、梅棹以降の理論や、考案者の実際の試行錯誤に基づく修正などが盛り込まれており、非常にレベルが高い。梅棹は方法論としてはそれほど詳しくは書いてないので、実際にカードを使ってみたいなら、梅棹でだいたい思想をつかんで、このサイトをみてやり方を学ぶ、というようにするといいとおもう。

この過程の一つに、タスクフォースがある。それは、ためたカードを元に再生産をするプロセスである。

PoIC - 再生産する

広い場所を作り、そこにカードを並べていく。もし似たようなことについて扱っているカードがあれば、それは重ねる。このようにして、似たことについて扱っているカードのグループを作る。そうしてできたまとまりに、そのまとまりの内容を書いたふせんを貼る。

このようにしてできたまとまりを元にして文章を作る。その作業の途中で新しいことを思いつけば、新しくカードを書く。その作業で内容を反映されたカードのグループは、お役御免として、カードボックスとは別の場所にしまう。こうして、カードボックスの中身は、以前よりも精選されたアイデアになる。

タスクフォースの意義


その特徴は以下の二点である。

1.再生産という過程を組み込んだこと

京大カードの限界点を、「アイデアから再生産する過程」を意識的に作り出さなかったことに求める。そしてその方法論を、タスクフォースという形で具体的に提示しているのだ。
ちなみに梅棹だと、この過程はない。アイデアはひたすらたまっていく限りで、その内容をどうこうしようという発想はできないのである。

2.カードボックスの秩序を一定に保つ方法論を提示したこと

カードの死蔵が起こるのは、時間が経過しカードが増えることによってカードボックスがカオスになるからだ。そこで、カードをまとめ、束ね、廃棄し、という過程を組み込むことで、カードボックスの秩序を一定にしようとしている。*1


時系列でカードを蓄積していくと、自然の法則に従って、システムの中のエントロピー(情報の乱雑さ)は一方的に増えていきます。分類しない時系列で は、なおさらです。このままでは、PoIC は破綻しそうにも思えます。私自身、カードが増えるにしたがって、このまま行ったらどうなるのだろうか、と心配になったことがありました。
この自然の法則に逆らってエントロピーを減らそうとする場合、人間の「努力」が必要になります。図書館や博物館では、「つねに分類する努力」によってこれを実現しています。そのために、これらの公共施設では高いコスト(人件費、時間)を払っています。しかし、前述のように、PoIC では積極的に(?)検索・分類しません。では、どのようにしてシステムの破綻を防ぐのでしょうか。
答えは簡単で、やはり検索・分類するのです。従来の方法と違うのは、これが一番最後に来ることです。PoIC において、カードを書くのは、個人の知識のデータベースを構築することです。しかし、これはまだ準備段階です。PoIC の本当の目標は、このシステムを使って、新しい知恵・知識・成果を再生産することです。そうして初めて "Get things Done!" となります。(PoIC - 時系列スタック法)

タスクフォースの限界


僕はカード法で挫折したあと、この過程を組み込んだのだが、それでもやはり、死蔵という問題は解消されなかった。それは、タスクフォースの過程に手間がかかる、という理由による。

まず、広い場所を用意しなければならない。気楽に机の上程度の大きさでやるということはできない(ただ使うカードの大きさにも依拠するかもしれない。僕はB6を使っていた)。これを実現するには畳数枚程度の広さは必要になる。
また、この作業は一度に行わなければならない。そうそう何度も、カードをすべて調べて並び替えるということはできないし、どのカードとどのカードが内容がかぶってるかを判別するというのは、時間をあければ忘れてしまう。
ふせんを買ったりとか場所を作ったりとかいろいろ用意はしたが、結局は何回かやってやめてしまった。月に一度は日を決めてやろうだとか、まとまりを途中まで作ったままそのままの状態でまとめ、一時中断もできるようにするだとかいろいろ試みたが、結局やらなかった。
「カードボックス内の秩序を一定に保つ必要がある」この発想自体は正しいのかもしれない。だが、それを実現する方法の煩雑さによって、実際に機能するまでに至らないのである。実行するための負担が大きすぎるのだ。

そうしてここでも失敗し、やがてカードを使う方法をすて、PCでの方法を模索することになるのである。

…続く


*1:梅棹だと、カードは基本的にすべて残すことになる。それの対処として対応するのは、「カードを書くときには論文を書くようにする」、つまりアイデアとして半端なものをそもそも流入させないという方法である。
カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。「発見の手帳」についてのべたときに、豆論文を執筆するのだといったが、その原則はカードについてもまったく同じである。カードは、メモではない。(梅棹忠夫『知的生産の技術』P55)

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